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【ギャラクシー賞テレビ部門3月度月間賞】-「GALAC」2021年6月号

仙台・荒浜、共同体に吹く風

NHKスペシャル
「イナサ~風寄せる大地 16年の記録~」
3月8日放送/22:00~23:00/日本放送協会

仙台市内、荒浜。そこはまさに現代に奇跡的に残されていた半農半漁の集落であった。そこに暮らす赤貝漁師の家族などを中心にした最初のドキュメンタリーは2005年、震災の前に作られた。その5年後、津波に襲われ仮設住宅で暮らす人々を追跡した2012年。そして震災10年の今と、16年間にわたって震災からコロナ禍までも超えて生きようとする荒浜の人々を追った。
震災と、そして津波が何を奪ったのか、その後の避難生活が何をもたらしたのか、人々がそれでも守り残そうとしたものは何か、16年間のドラマが物語る。
これまで多くの報道が、奪われた「暮らし」や「集落」、「コミュニティ」について触れてきた。数多くの努力がテレビでもそこに向けられてきた。しかしこの番組ほど確かに、大きなリアリティをもって実相を伝えてくれた例を私は知らない。
かつてあったこの集落にはもはや居住することはかなわない。しかし家の跡地に作業小屋を建て赤貝漁を続けた漁師の思い、住めはしなくとも畑跡を農地として使いたいという農家の思い、あるいは、人々の強い願いで集合仮設住宅で守られてきた地域の絆を仮設の取り壊しで失い、その後静かに亡くなっていった住民の思い。そうした人々の人生や生き様が、集落とかコミュニティとか地域などというわかるようでわからない「名詞」のその背景にある大きな存在へと収斂してゆく。
かつて社会学者のテンニエスがゲマインシャフトと呼んだものの実態とはいったいなんであったのか、しかと教えられる思いがする。
「イナサ」とは春の豊漁と豊作をもたらす南東の風。この風が吹く荒浜の日常は物理的には失われたかもしれないが、それでもどこかにある「荒浜」でみんなで暮らすことを、そしてそこで死んでいくのだということを荒浜の人々はシンプルかつナイーブに疑わない。そこからわきだす力強さこそは、まさに今の時代に必要な「生きる力」なのではないだろうか。(兼高聖雄)

授業「倫理」を山田裕貴がアップデート

よるドラ「ここは今から倫理です。」
1月16日~3月13日放送/23:30~23:59/日本放送協会

自分の高校生時代を振り返っても倫理の時間に何を習っていたのか、まったく記憶がない。受験とかかわりない倫理は、一生懸命に勉強する科目ではなかった。このドラマで繰り広げられる倫理の授業は、それとはまったく違う。生徒たちが現実にぶつかる課題について自分なりに考え抜き、生きていくための授業になっている。
第2話、生徒の間幸喜(渡邉蒼)は、授業中いつも寝ている。倫理の授業で輪になって対話しているときでも寝入ってしまう。シングルマザーの母親が深夜まで仕事をしていて帰りが遅いので、友だちと夜中遊びまくっているためだ。倫理教師の高柳(山田裕貴)は、キルケゴールの「不安は自由のめまいだ」という言葉を引用しながら、何もかも自分で決められる自由には、この先どうなるのかわからない不安がつきまとうことを語る。幸喜は、高柳の言葉を聞いたあと、家で母親の帰りを待つことを自分で選び、心の平穏を得る。
「不安は自由のめまいだ」というキルケゴールの言葉が、倫理の教科書に載っていたとしても、普通だったら「ふーん」とスルーするか、「わけわからない」と投げ出してしまうのがオチだろう。自由で、何が先に待っているかわからない不安を、生徒本人が漠然とでも感じているからこそ、言葉が響いてくるのである。ドラマを見ている視聴者も同じで、いつの間にか倫理の授業に参加しているかのように引き込まれ、そして自分の問題として考えさせられる。
高柳は、これまでの学園ドラマには見られなかった教師として現れてくる。何かを悟った先達のように生きる道を説くのではなく、生徒に問いを投げかけて、自ら考えるように促す。一見すると冷たいようだが、生徒が答えを求めようとしなければ、どのような教えも意味がないと考えている。何より、高柳自身が揺らぎ悩める存在であることが素晴らしい。主演の山田裕貴は、影がありながら生徒に希望を与える高柳先生になりきっていた。山田の演技なしには、このドラマは成り立たなかった。(藤田真文)

主体性を失わずに生きることの輝き

オトナの土ドラ「その女、ジルバ」
1月9日~3月13日放送/23:40~24:35/東海テレビ放送 テレパック

女性の分岐点である40歳のリアルと「きっといいことが起こる店」のファンタジーが響き合う。奇跡は人とのつながりのなかで起きるのだという揺るぎない物語に、「女は40から」の実感がキラキラと手に残る。
地味な倉庫で無気力に働くうちに40歳になった主人公(池脇千鶴)が、路地裏のバー「OLD JACK&ROSE」の貼り紙を目にする。「求むホステス40才以上」。勢いで開けた扉の先は、壮絶な人生を歩んできた歴戦の高齢ホステスの世界。「踊って、転んだらまた笑って」。彼女たちを通し、戦後この店を開いた初代ママ、ジルバのイズムと生き様が紐解かれ、主人公のなかの「立ち上がる力」が動き始める。
池脇を中心に、バーは草笛光子、中田喜子、久本雅美ら、昼の職場である倉庫側に江口のりこ、真飛聖。有間しのぶの原作漫画を最高のキャスティングで映像化したことに志を感じる。倉庫側に原作にはないリストラ騒動を設け、女3人の不器用な友情物語と、三者三様の「40歳の転機」を生き生きと立ち上げた。
主人公とジルバ(回想)の二役を演じた池脇の女優冥利も伝わってくる。ノーメイクでスクラッチカードを削るくたびれた中年ぶり、バーの初月給でかわいい靴を買ってみた小さな幸せ、震災で傷ついた故郷で見せた凜とした横顔。どんなときも主体性を失わず生きる人たちの輝きに触れ、心の成長がよくわかる。「ジルバの店を私は守る」。亡きジルバと生き写しのラストシーンを、この人で見ることができてよかった。
昭和の回想をバーのステージを使って演劇風に見せた演出も特筆しておきたい。作品に宿るアナログの迫力を見事に表現し、草笛が娘時代の壮絶な過去を告白する9話はそのハイライトだった。「私が売ったのは花ではなく……」。白髪の草笛が傷を負った少女そのもので、大きな時間軸が目の前に迫ってきた。
コロナと「X年後」の未来に触れた結びには賛否あろうが、スミレちゃん(江口)があの日産んだ娘と家族ペアルックでお散歩する風景がしみじみと穏やか。送り手の願いが匂い立っていた。(梅田恵子)

生と死、父と子を結んだ奇跡のドラマ

金曜ドラマ「俺の家の話」
1月22日~3月26日放送/22:00~22:54/TBSテレビ TBSスパークル

衝撃の最終話だった。これほど感動的な結末をいったい誰が予想しえただろうか。「俺の家の話」は、プロレスラーの観山寿一が引退試合の直後に能楽・観山流宗家で父である観山寿三郎(西田敏行)が倒れたとの報を受けて「家」に帰り、家族や介護士見習いのさくら(戸田恵梨香)とともに父を介護する物語だ。寿一は父の介護をしつつ「スーパー世阿弥マシーン」としてプロレスの世界にも返り咲き、一見相容れない二つの世界を行き来して、両者をつなぐ存在となる。
おそらく多くの視聴者が、寿三郎を看取るドラマだと思いながら見ていただろう。実際、終盤で介護施設を抜け出した寿三郎は稽古場で倒れ危篤状態に陥るのだが、能面ならぬ覆面をつけてスーパー世阿弥マシーンに変身した寿一の「肝っ玉、しこったま、さんたま」というプロレスの掛け声によって、死の淵から生還する。世襲制により成立している観山家は閉じた「家」だが、寿一がプロレスという真逆の世界を持ち込むことでそこに風穴を開け、寿三郎に新しい生命を吹き込んだのである。伝統芸能の「家」が弟子たちや他人をも巻き込んでプロレス空間と化すことで奇跡を起こす、このシーンは圧巻だ。ところが最終話で、寿一のほうがプロレスの二度目の引退試合であっけなく死んでしまったことが明かされる。
しかしドラマはそこで終わらない。認知症の寿三郎は、他の家族には見えない寿一と会話する。そして、生き別れた息子を探す狂女が息子の亡霊と出会う能「隅田川」の上演に重ねて、亡霊の寿一が姿を現すのだ。初めて息子を褒める父と素直に喜ぶ息子の対話は、生死を隔ててもなお幸福な父と子の姿を見せるとともに、認知症の老人が実は豊かな内面の世界を生きていることを示し、このうえなく温かい最終話となった。「俺の家の話」は、能とプロレス、老いと若さ、生と死など相反する二項を対立させず繋ぐことで、閉じた家を外部に開いていく奇跡のドラマだったと言える。
プロレスラーと能楽師を見事に演じ分けた長瀬智也には、ぜひとも俳優を続けてほしい。(岡室美奈子)

★「GALAC」2021年6月号掲載