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【ギャラクシー賞テレビ部門2月度月間賞】-「GALAC」2022年5月号

音楽の進化を伝える!楽しい教養番組

ヒャダ×体育のワンルーム☆ミュージック
「魔法の機材パッドで曲作り×STUTS」
2月2日放送/22:00~22:25/日本放送協会 NHKエンタープライズ VIVIA

世の中と音楽の関係が変わるなか、今、音楽番組も変わり目にある。そのなかで、音楽番組の新しいトレンドを感じさせてくれるのが、この番組だ。特に2月2日の放送は、その真骨頂と言える回だった。
ゲストはSTUTS(スタッツ)。ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」の主題歌である『Presence』の作曲、プロデュースなどを務め、一躍注目されたミュージシャンだ。彼が使うのは、「パッド」と呼ばれる機材。いわゆるサンプリングの手法でさまざまな音を打面(パッド)に割り当て、音楽制作ソフトと接続して曲作りをする。番組では、実際に『Presence』の制作過程を再現してくれた。別の作曲家が作った劇伴のフレーズを切り取り、さらにそれを自在に加工して曲が作られていく様は、まるで鮮やかな手品でも見ているようで、まさに「魔法の機材」という感じだった。
また番組中、番組MCのヒャダイン、岡崎体育とのコラボも実現。実際にサンプリングの手法を用い、即興のラップを交えたオリジナル曲が作られていく光景は、STUTSのほんわかとしたキャラクターもあって、音楽本来の楽しさに溢れていた。
この番組を見ていると、音楽が万人に対して「開かれた」ものになりつつあるのがよくわかる。音楽理論などを専門的に学ばずとも、自分に合った機材を使って誰もが自分の感覚で音楽を作り、それを発信することができる。文字通り「ワンルーム=自分の部屋」が世界と直結する時代になった。
しかもそれは、ここ何年かの間に、ごく当たり前の風景になろうとしている。最初は最先端の革新的なものだったスタイルも、確実にメジャーなものになりつつある。「大豆田とわ子と三人の元夫」のエンディングで、STUTSの曲を松たか子や出演者が若手ラッパーとコラボして歌う姿が、その何よりの証だ。
音楽は時代とともに変化し、そして進化する。そのことを決して肩肘張ることなく、リラックスした雰囲気で教えてくれるこの番組は、まさに優れた音楽教養番組のお手本と言っていいだろう。(太田省一)

利他より「おせっかい」の行動力

ザ・ノンフィクション
「おせっかい男とワケありな人々~あなたのお家探します~」
2月6日放送/14:00~14:55/フジテレビジョン ラダック

このコロナ禍で本当に困ったとき、国家も地方自治体も個人には何もしてくれていない。突如、自助だの共助だのと言われ、途方に暮れている人々はいまだ多数報道されている通りである。そこに来てロシアの軍事侵攻。他国のことと眺めてはいられない不安も多い。
感染症対策に話を戻せば「ここは利他的行動を」などと言われ、みんなで家にとどまり、ワクチンを打ち、電車の窓を開け、混雑を避けた。なおかつ「利他的行為」は社会の幸福を生み、いつか自分の利益となるから、実は最も利己的・合理的なのだという「利己的な利他主義」が思想界でも目立って取り上げられた。それは本当にそうなのだろうか。
利他は難しい。なぜなら「他」にとって何が「利」なのかが、その場では判断しにくいからだ。しかしこの番組の主人公、ほぼフリーとでもいうべき不動産屋氏は、次から次と誰かのために行動する。火事で焼け出され入院した生活保護者のために家を探す。のみならず不要品のテレビや家具や食器まで探してきてセットしておく。退院の面倒からその後の部屋の設備の世話までする。確かに自治体やソーシャルワーカーにはできないが、不動産屋だからできることだ。それを次々こなす。さらには視覚障害の方の住宅の世話、カーテンがけ、ついでに食事。ときどき訪問しては話し相手にも。曰く「ただ、おせっかいなんですよ」。
彼の部下となった女性が言う。「本当にその人のためなのかわからないのに」。そう、それが利他の難しさだ。しかし彼と活動するうちに「やりたいからやる」、「やれるからやる」、ただそれだけだと学ぶ。ふとやってみたことが、後になって感謝される。それだけで充分ではないかと。なぜならそれは自分ができることだし、自分しかできないことだから。それこそが「おせっかい」なのだ。そしておせっかいは楽しい。
おせっかいで、ほんの少し世界が良いほうに動く。その積み重ねが今この世の中を動かしていく本当の仕組みなんじゃないか。そんなおせっかいの意味と有り難みを、しみじみと考えさせてくれた。(兼高聖雄)

言葉と絵でこだまする、死んだ「ぼく」

ETV特集
「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」
2月12日放送/23:00~24:00/日本放送協会 ドキュメンタリージャパン NHKエデュケーショナル

90歳になる詩人、谷川俊太郎と、絵本は初めてという新進イラストレーター合田里美、そして子どもの自殺について絵本を企画した編集者たち。彼らのやりとりのなかで、「ぼく」というタイトルの一冊の絵本が編み上げられていった濃密なプロセスの記録である。
「ぼくはしんだ じぶんでしんだ ひとりでしんだ」というリフレインに「あおぞらきれいだった ともだちすきだった」「おにぎりおいしかった むぎちゃつめたかった」というありふれた少年の日常が挿入される谷川の詩。死んだ理由も背景もまったく語られないその行間に想いを馳せ、「なぜ死んだのだろう」と考えながら合田は少年をめぐる風景を透明感のある「無口な絵」で立ち上げていく。企画が始まったのは2年前。コロナ禍のなかメールやファクスのやりとりでラフ稿は4稿に及ぶ。詩人は「死んだ原因を孤独だったからと読者に勝手に判断してほしくない」と「ぼく」の死をめぐるさまざまな想いを投げかける。その言葉を受け止めて試行錯誤を続ける画家とともに、視聴者も「ぼく」の生と死を考える渦に巻きこまれていく。
子どもの自殺の半分は理由がわからないそうだ。それでも世間はいじめや孤立など、わかった気になれる理由を探し、その死を意味づけたがる。「人は二つの孤独、『人間社会内孤独』『自然宇宙内孤独』を抱えている」という谷川の言葉に、編集者は彼の処女詩集『20億光年の孤独』を思い出す。18歳の谷川自身の胸に去来した言葉だ。「生きたいということと死にたいということは別々のことではないし、反対でもない」と、谷川は「意味偏重の世のなか」に異を唱える。
「大切なことは何かがそこに存在するということ」
番組も「わからないこと」を饒舌に説明しない。読者一人ひとりが自分を投影させながら「ぼく」のことを考える時間を創ろうとする詩人と画家の共同作業。そこに寄り添い切ろうとする番組制作者の息遣いを感じる。言葉と絵が反響しあう一冊の絵本に凝縮された想いや時間。その深さを表現できるテレビドキュメンタリーの可能性を見せてもらった。(古川柳子)

虐待・いじめから逃げてきた子どもたち

クローズアップ現代+
「『トー横キッズ』~居場所なき子どもたちの声~」
2月22日放送/22:00~22:30/日本放送協会

日本最大の歓楽街である新宿・歌舞伎町の真ん中に、建物で囲まれた広場がある。旧コマ劇場の跡地に建つ東宝ビルの横に位置するので「トー横」と呼ばれる。ビルの上からはゴジラの巨体が広場を睨んでいる。
3年ほど前から「トー横」には10代の子どもたちが集まって、一日の大半を過ごすようになった。多くは家庭での虐待や学校でのいじめなど深刻な悩みを抱えて、自分の居場所がどこにもないと感じた子どもたち、「トー横キッズ」だ。みんなSNSを通じて友だちになり、ここに来るようになった。黒っぽい服と厚底靴の“地雷系ファッション”を身に着けて遊んでいる。
当初、この番組の取材はうまくいかなかったという。子どもたちには大人やマスコミへの不信感もあり、カメラやマイクを見ると、みんな一斉に逃げ出してしまう。未成年者への取材には難しい制約もある。
しかし4カ月に及ぶ粘り強い取材に、子どもたちの警戒心も和らぎ、何人かの子どもが自分の日常を語りはじめ、心の内を見せるようになった。
子どもたちの行為や言葉には、まさか!と驚かされることが多い。ある15歳の少女はSNSで援助交際の相手を募り、その度に1万円を得て日々暮らしている。ホテル泊まりや野宿を続けて、何カ月も家出状態だという。12歳で中学1年生の別の少女は化粧も覚えて「お酒を飲むようになった」とカメラに向かって語る。危険な誘惑や犯罪と隣り合わせの日常でも、家庭や学校よりも居心地がいいのだろうか。
一人の男の子が仲間たちとの会話のなかで「トー横」の居心地の良さをたとえて「児童館みたいな……」と語った言葉をマイクが捉えていた。
社会活動家の湯浅誠氏がスタジオ出演し、この男の子の「児童館みたいな」発言を取り上げた。湯浅氏は家庭や学校がその子の居場所になりえないという現実があるならば、児童館などの地域社会の役割が重要になる(大意)と指摘する。「状況は深刻で問題は多いが、やるべきことはシンプルです」という湯浅氏の発言に現実を見据えた説得力を感じた。(戸田桂太)

★「GALAC」2022年5月号掲載