放送批評懇談会は今年度(1995年度)より新たに、伝統あるギャラクシー賞にCM部門を加えることとなった。CMはいうまでもなく、民放経営の根幹を支えるものである。にもかかわらず、ギャラクシー賞はこれまで、CMを選奨の外に置いてきた。これにはそれなりの理由もあった。
その一つは、CMには従来権威ある幾多の賞が存在していたということであろう。これらの賞は、既に歴史を重ね、多くの優秀CMに声援を送る役割を果たしてきたように思われる。そしてもう一つの理由は、放送批評家の本来の仕事は番組批評であるという意識が強かったことにもよる。
しかし、放送批評のあり方は時代とともにその視野を拡大せざるを得ない状況にある。放送批評は番組個々の優劣を超えて編成そのものの姿勢を問うことの必要性があるのではないか、番組と一体化するような形で制作されるインフォマーシャルの登場に、批評家の視点はどのようにセットされるべきなのかなど、放送批評が問われている課題は多いといわざるを得ない。これらのなかで、当懇談会は、放送批評の視野の拡大の一つのステップとしてCM賞の選奨を決意したのである。
優れた、伝統ある賞がすでに多く存在するなかで、新たな賞の立ち上げは至難のワザであることは言うまでもない。どれだけユニークなアイデンティティがあるのかが問われる。
約一年を費やしてさまざまに論議が行われた。そして最終的に、「未来を示唆するテレビCM」をコンセプトとして賞を設立することになった。
これには多少の解説が必要だろう。本来、テレビCMはクリエイティブな所産としての評価という側面だけでは律し切れない部分がある。それは、テレビCMが「作品」である前に、マーケティングのツールであるという面である。むしろ、ツールとしての機能性を高めるための手段としてのクリエイティブという構造が一般的だろう。表現アイデアは斬新さを装っていても、メッセージの伝達という意味では最大多数に共通の理解を求めることが基本的な設計基準になっているのが広告である。この点、CMのクリエイティビティは、番組の持つ作品性とはかなり異なったものである。番組は見る人個々の感性に訴え、それぞれの個性的な理解と感慨を得られれば、それで所期の目的を達する。
このようにCMは、番組とは異なった評価軸が要求される。その評価軸として私たちが設定したのが「未来を示唆するテレビCM」である。その心は、テレビCMが私たちの生活にどのような明日を期待させてくれるかということでもある。これは表現アイデアの新しさや、扱う商品のサービスの新しさの問題ではない。むしろCMクリエイティブに賭けるチャレンジャブルな意識の問題であり、テレビCMで問いかけるスポンサー企業やCM制作者の時代観といった次元のものであろう。その意味では、「サムシンク・ニュー」のあるCM以外は選奨の対象にはならないだろう。
もう一つ、ギャラクシーCM賞のユニークなポイントは、ノミネートの資格を問わないことだ。企画や制作に携わった個人のノミネートもウェルカムだ。タレント起用の新しさを評価してほしい、音楽の斬新さを聞いてほしい、照明のアイデアと工夫を買ってほしいなどというプランナー、音楽家、ライトマンなどスタッフ個人の「思い」がノミネートの条件になる。
ノミネートに関して、あらゆる「部門別」を廃した。これも大きな特徴である。商品ジャンル別、業種別、秒数別などの部門は一切ない。これらノンセクションのなかから受賞作十本(当時)を選出する。そして、その中の最も優れた一本にギャラクシーCM大賞が贈られることになる。
大事件・大事故報道の際、CMを抜く抜かないの議論が起こるようになった。しかし、CMは何かことがあれば「遠慮」しなければならない存在なのだろうか。タレントやアナウンサーの中には、CMを「お知らせ」と表現するものもいる。なぜCMが「CM」であってはいけないのか。この奇妙に屈折した感覚は、CMが民放経営の根幹を支えるものとは、とても思えないものだ。
放送批評懇談会は、テレビCMに社会的な責任を求めるとともに、正当な立場を確保することを応援したいと考える。そのためにも伝統あるギャラクシー賞にCM賞を加えることは、まことに意義のあることと思う。後発ではあるが、私たちは志高くこの賞を育てていきたい。CMにかかわるすべての方々に、奮っての応募をお願いしたいと思う。
なお、このギャラクシーCM賞は、当面テレビのみを対象とするが、CM選奨の経験とノウハウを積みあげ、できるだけ早い機会にラジオCMにも対象をひろげていきたいと考えている。重ねて、関係各位のご支援、ご理解をお願いする次第である。
ギャラクシー賞選奨委員会
(放送批評:95年6月号より)